性癖と、パートナーシップの境界線――付き合わなくていい。背負わなくていい。

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■ 理解してきた側だった、という自覚

わたしはこれまで、
性癖について「理解する側」でいることが多い人間でした。

性癖は、
その人の中にある言葉にならなかった感情が、
形を変えて現れたものだと知っているからです。

苦しさ。
寂しさ。
抑圧。
行き場のなかった気持ち。

それらが、
身体的な表現として外に出てくることがある。

だからわたしは、
相手の性癖に対しても、
「そうなんだね」と受け取ろうとしてきました。


■ 受け取れていたはずのものが、変わった瞬間

ある時から、
それまで受け入れていた性癖プレイに対して、
自分の身体がはっきりと違和感を示すようになりました。

それは、
身体の関係を持ってから数ヶ月が経った頃。

それまで、
安心感も、信頼も、満たされていました。

むしろ、
相手との関係の中で、
自分の中に「安心」を作れるようになってきた時期でした。

そんな状態で、
今までと同じ窒息系の性癖プレイをされると、

身体が、
「今は、それを望んでいない」
と、明確に感じたのです。

快感ではなく、不快。
陶酔ではなく、拒否。

感覚が、完全に変わっていました。


■ 「不快」のあとにやってきた、別の感情

驚いたのは、
不快を感じたことそのものよりも、
そのあとに湧いてきた感情でした。

それは、
「嫌われるかもしれない」
「会えなくなるかもしれない」
という不安ではありませんでした。

もっと静かで、もっと深い不安。

「わたしが拒否したことで、
相手が、もう心を預けなくなるんじゃないか」

という恐れでした。


■ 性癖を「感情の昇華」と知っていたからこそ

相手の性癖が、
言葉にならなかった感情の出口だと分かっていたから、

それを拒否することで、
相手の昇華の場を奪ってしまう気がしたのです。

請け負う必要はない。
頭では分かっている。

それでも、
拒否することで相手を傷つけてしまうのではないか、
可哀想なことをしてしまうのではないか、
そんな葛藤が生まれました。

だから、
「今日は疲れているだけ」
そんな理由をつけて、やり過ごしてしまった。


■ それでも、はっきり分かったこと

はっきりと分かったのは、

性癖は、
理解することと、引き受けることは違う
ということでした。

相手の感情がそこにあることは分かる。
でも、
その感情の出口を、
わたしが背負う必要はない。

性癖は共有できても、
請け負うものではない。

それに気づいた時、
「付き合わなくていい」
という言葉が、
初めて自分の中で腑に落ちました。


■ 境界線は、冷たさではない

拒否することは、
相手を拒絶することではありません。

境界線は、
愛がないから引くものではなく、
関係を壊さないために必要な余白です。

同意のない性癖は成立しない。
どれだけ理解があっても、
その原則は変わりません。


■ 性癖と、パートナーシップは別のもの

性癖は、その人のもの。
パートナーは、昇華装置ではない。

性癖があること自体は問題ではないけれど、
それを誰かに背負わせる必要はない。

愛があっても、
付き合わなくていい場面はある。

それを選ぶことは、
冷たさではなく、誠実さだと思います。


■ 静かな結論

性癖を理解することと、
性癖に付き合い続けることは、同じではありません。

わたしはもう、
「理解できるから引き受ける」
という関係を選ばなくなりました。

必要な人とは並走する。
違和感があるなら、立ち止まる。

それでいい。

性癖も、
関係性も、
無理をしないところにしか、
長く続く形はないのだから。

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